「木を見て森を見ず」 - 英文を読むとき単語ごとの意味を理解するのが目的になってませんか。
英語とか言語学習中、知らない単語が出てくるたびに辞書を引いていませんか。
その気持ちすごく分かります。ただ、リスニングやリーディングなど英語に触れる際に「知らない単語を調べること」が目的になってしまってはいませんか。
英語に触れるとき、絶対的な目的は「その英文の大意を理解すること」のはずです。
少し滑稽な例ですが、美術館で絵を見ているときに「この絵は人の顔」「この絵は田園風景」とか、その絵が何かを理解しようとするはずです。「ここは青」「ここは緑」などその絵の配色しか気にしない人なんていません。
表紙の絵もまず「人の顔」だと認識して、気になる人はそれから「小指は黄色」とか細部に目を向けます。
英文理解も絶対的にこの順番であるべきです。まずはその文の大意をしっかり理解することを意識しましょう。メリットもたくさんあります。
文章の全体像を理解しようとすると話がわかる様に
英語を教えていて、リーディングでもリスニングの問題で「それでこれはどんな話だったの」と質問すると答えが返ってこないことがよくあります。それは文ごとの、引いてはその文章のテーマ、全体像を理解しようとして読んでいないからです。
確かに問題を解こうとする意識が先行するのも理解できます。ただし英語は基本的には単なる言語。普通は話し手も書き手もそれが問題になることを意識して英語を使ってません。つまり、何か思いやメッセージを伝えようとして話して、書いているのです。
それを意識せずに、一文一文、もっと言うと一単語一単語ずつ理解しようとするから、前後の繋がりに欠け、文章の全体像が理解しづらくなってしまうのです。
日本語を読み聞きするときはみんな絶対全体像を、なんなら全体像しか基本意識していません。わざわざコメンテーターが言った「厚顔無恥」とか辞書で引かないでしょう。意味を知らなくても文脈からざっくり理解する or 無視するはずです。
文章の大意を理解しようとすると、本当に知らなければいけない単語に気付ける
では英語など言語学習では全体像だけ意識すればいいのでしょうか。
そうは言っても実際に単語がわからないと全体像の理解に繋がらないこともよくあります。例えばこの記事。「文章」とか「大意、全体像」、「リーディング、リスニング」などの単語を知っていないと何が伝えたいのはよく分かりません。
でもよく見直してみてください。こういった類の「重要単語」は少なくとも数回、繰り返し使われているはずです。するとここで「ああ『大意』とか『全体像』はよく使われる大切な単語なんだ」と気付けるはずです。
日本語でもそうで最初のうちは「ソーシャルディスタンスって何?どんな状態?」って感じですが、繰り返し使われるうちになんとなしにその意味を理解できる様になります。
英語に対する持久力がつく
日本語での会話中にもし「愚弄」「純朴」「悪寒」みたいな分かりづらい単語のみを発する人がいたとします。100%いませんが会話にならないし、その会話?めちゃつまらんと思います。
それに似た人はたまにいて、知識をひけらかしたいのか、こちらが理解しているかどうか完全無視でよくわからん単語や情報が山盛りの話し方をする人がいます。
何が言いたいかと言うと「メッセージが理解できないとつまらない」のです。そして読み聞きしててつまらないと辞めたくなります。
だからもともと自分の興味のある内容を、さらに全体像の理解を中心に英語にまずは触れ続けると英語に触れ続ける精神的な持久力がついてきます。
そして英語に20分とか30分とか触れ続けてもどっぷり疲れた感が出なくなったら、少しずつ英文のレベルをあげたり、内容を変えてみたい、ちょっと単語学習に力を入れてみたりすればいいのです。
ジム通い始めでダンベル20回持ち上げるのが限界の体力なのに「手首の角度はこう」「肘の位置はここ」「腰を意識する」とか色々言われても、そもそもそれどころじゃないし、辞めたくなってしまいます。
まず慣れる、そして慣れ急がない。慣れるまでにはそれ相応の時間がかかります。全体像の理解を優先しながら、ゆっくりと徐々に細かなところまで意識を向けられる様にしましょう。「木を見て森を見ず」ではなく「森を見て、余裕があったら木も見てね」。